2010年6月30日水曜日

09年沖縄慰霊の日

09年沖縄慰霊の日
猪熊得郎
6月23日は沖縄慰霊の日です。
摩文仁平和祈念公園の平和の礎には、今年新たに123人が刻銘され、総数が24万856人となりました。

まだ薄暗い朝早くから遺族らが訪れ、平和の礎の名前を指でなぞったり、花を捧げ、手を合わせて、戦没者に語りかけていました。

私も18歳で戦死した兄の記銘碑の名前をなぞり、花を捧げ、65年前の別れをを思い起こしました。

44年8月の最後の日曜日、水戸の陸軍航空通信学校長岡教育隊の私に、父と兄が面会に来ました。別れの時、営門の前で黙って見つめ合いました。

前日、回天特攻隊を志願し採用された17歳の海軍予科練の兄は肘を前に出す海軍式の、15歳の陸軍特幹の弟の私は肘を横に張る陸軍式の敬礼を交わし別れを惜しみました。

父は黙って二人の少年兵の息子達を見つめていました。父と三人の最後の別れを思い起こし、碑の兄としばし語り合いました。

保存の会沖縄支局宮城さんの紹介で琉球新報本社から取材申し込みがありました。短い応答の後、東京支社の取材、そして沖縄での取材と云うことになりました。


琉球新報6月21日の記事です。
人間魚雷「回天」輸送艦撃沈 事実、元隊員らが解明
〔神奈川〕人間魚雷回天隊員ら352人を乗せた旧日本海軍の第18号輸送艦が1945年3月18日に粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈されて全滅されていた史実が、元回天隊員らの調査で明らかになっていたことが分かった。国の資料で那覇到着直前に「行方不明」とされ、その後「喪失認定」とされた同艦の史実が当事者らの掘り起こしで明らかになった。

 遺族の中には国の戸籍謄本の訂正につなげた人もいる。回天搭乗員だった兄猪熊房蔵さん=当時(18歳)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=は、県内にあったとされる回天基地の所在を探すなど戦後64年を経た今も兄の痕跡を追い続ける。

 第18号輸送艦の軌跡を調査したのは、元回天隊員らでつくる全国回天会長を務めた故小灘利春さんと同会事務局長を努めた河崎春美さん=東京都江東区=ら。米海軍の記録「第二次大戦潜水艦作戦史」などの資料から突き止めた。

 河崎さんらは戦後、輸送艦乗員らの戦死の日や場所などが戸籍謄本などでまちまちなことに疑問を抱き、調査に着手した。「第18号輸送艦の搭乗者は、国の記録では死亡日が違っていたり、沖縄本島の陸上戦に参加していたりと、でたらめだった」と話す。

 米資料によると、第18号輸送艦は45年3月13日に、回天白龍隊員らを乗せ山口県にあった光基地を出港。那覇到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発、1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら225人と、第1回天隊の白龍隊127人が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員127人は、14にんの氏名などが判明している以外は不明のままだ。

 猪熊得郎さんの兄房蔵さんは、26年3月生まれ。44年8月に回天特攻隊に志願。」白龍隊搭乗員として、沖縄に赴く途次で死去した。だが、戦後の厚生省(当時)の記録(公報)や戸籍謄本では「荘河丸」で鹿児島を出発し東シナで死亡したと記録されていた。

 「東シナ海はあるが、東シナなんて場所はない」。得郎さんは、小灘さんや河崎さんらの史実の調査も踏まえ、国に戸籍原本の記録訂正を要求し、2000年3月に実現した。

 「回天の配備作戦は、司令官だけが知る秘密事項だったことが、後の記録が誤った原因の一つなのでしょう。本島中部に造られた回天の基地の所在ですら、今もって分からない」。兄の足跡をたどり何度も沖縄を訪れている得郎さんは今年も房蔵さんが追加刻銘された平和の礎を訪れ、兄を悼む。


 平和の礎の兄の刻銘碑前で23日に現地取材を受けました。
 琉球新報、24日の記事です。

兄の刻銘に決意新た
   猪熊さん 回天隊員の最後調査

 旧日本海軍の大18号輸送艦に搭乗し戦死した人間魚雷・回天隊員の猪熊房蔵さん=当時(18)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=が23日、糸満市の「平和の礎」を訪れた。

 房蔵さんは44年8月に回天特攻隊に志願、白龍隊搭乗員として沖縄に赴く途中、戦死した。房蔵さんは1997年、礎に追加刻銘されたが、具体的な死亡場所や本島中部の回天基地の所在は不明で、房蔵さんの移動経路や任務の詳細も不明のままだ。

 追加刻銘の後、毎年礎を訪れている得郎さんは「わたしも少年兵だったから兄がどんな気持ちで訓練し特攻隊に志願したか分かる。兄は、家族、国のためにと真剣に考えていた」と思いやる。

国が輸送艦を事実関係が不明のまま「喪失認定」としていることに対し得郎さんは「いつ、どこで兄が死んだのか分からないと言うのはあんまりだ。弟のわたしが少しでも調査し書き残さないといけない」と決意を新たにしていた。

 第18号輸送艦は米資料で、45年3月18日、粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈され全滅したことが明らかになっている。


粟国島へ

第18号輸送艦沈没地点の粟国島行きを24日に予定していました。風浪が荒れて1日1便、片道2時間のフエリーは3日間欠航していました。
9人乗り1日2便の小型飛行機は今までの運行会社が4月で撤退し、6月から新しい会社で運行が再開されました。

フエリー欠航で飛行機に旅客が殺到しました。那覇空港でキャンセル待ちをしたが駄目でした。

私の体調を心配して、保存の会の若い女性ボランテイア2人が介添えで同行していました。諦めそうになる私を励ましてくれました。日帰りでもと25日の帰りの飛行便は確保しました。最後まで粘ることにしました。

幸い25日にフエリーが出ることになりました。12時粟国港着、1時間停留、13時粟国港発ということでした。

帰りの飛行機は運航するということです。12時から5時まで島にいることが出来ます。

私は97年にこの島に訪れています。
その時は、島の議員も、教育委員会も、一切記録もなく、手がかりは何も得られませんでした。

2001年に再びこの島を訪れました。民宿の女主人の努力で、私のために漁協が協議をして1艘の漁船を出してくれました。   

 第18号輸送艦沈没地点の海上で花を捧げることが出来たのです。島のすぐ目の前5キロの地点。しかし岸は断崖絶壁の岩場、1000メートルの海溝。回天隊員や輸送艦乗組員は、恐らく早い潮流に引き戻され、流され、また、鮫に襲われ一人も島にたどり着けなかったのでしょう。
現状を実際に見聞し兄や回天隊員の無念を思い知らされました。

今回は残念ながら海が荒れて漁船を出すことが出来ません。船長の案内で沈没地点の真正面の海岸を訪れました。水平線の遙か手前、石を投げれば届きそうな場所が兄たちの沈没地点です。

用意してきた花束を供え兄たちの無念を思い手を合わせました。 空も海も青く、兄が波の上に顔を出し、「得郎良く来たな」そう云って笑って手を振っているようでした。
介添え役の2人もまるで身内のように手を合わせてくれました。

船長の話
「あの辺は鯛の猟場です。私も海の穏やかな日は、毎日あそこに船を留め一日猟をします。いつもエンジンの音が聞こえました。何処に船がいるのかなと思って見渡しても他の船を見かけませんでした。ところが、前に猪熊さんを案内して、あそこで花を捧げました。それ以来エンジンの音が聞こえなくなりました。弟さんの訪れに兄さんの心が安らぎ、エンジンの音が聞こえなくなったのでしょう」

「前回の後、私の話から猪熊さんのこと、輸送艦の沈没のことが島の噂になりました。そうして、そういえばあれはそのことだったのか。明け方、牛の放牧にきた。海で船から火を噴いた。ジグザクに逃げていた。探照灯らしきものを照らしていた。大きな火柱を見た。船が沈むのを見た。」何人かの人から輸送艦沈没の状況を聞くようになったとのことでした。

その話は、米側資料の状況を裏付けるものでした。戦後64年目の発見です。
再訪までにより詳しい聞き取りをお願いして夕方、島を離れたのでした。

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