2010年7月25日日曜日

帝国陸海軍の少年兵1

「帝国陸海軍の少年兵」 (1)
猪熊得郎
はじめに

 序に代えてジャーナリスト増田れい子さんのエッセイを紹介します。
 なお、自衛隊の少年兵についついては、制度の変更もあり、現在の状況について、この連載の最後に掲載致します。

風紋
言い残しておきたいこと
ジャーナリスト 増田れい子
……………………………
◇   ◇
 59年前に戦場で、ヒロシマ、ナガサキ、また
沖縄本島、主要各都市を中心に三一〇万人のナマ身の人間が、あるいは爆死しあるいは飢えあるいは差し違えて死に果てた末、戦果は止んだ。

 戦場となったアジアの各地での非業の死者は、二〇〇〇万人を数える。
 もう少し戦争が長引いていたら、死者の数はもちろんさらに増えていたであろう。かくいう私自身も空襲か飢餓で、命を失っていたに違いない。敗戦時、私は16歳だった。  

 実は、この年齢で戦場に身をおいていた、いわゆる少年兵は決して少なくない。戦争末期海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に何と42万人もの少年が志願している。彼らはのちに特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装をほどこした水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力とされた。

 猪熊得郎さんはその少年兵の生き残りで、少年兵を通して日本の侵略戦争をはじめ平和について、憲法について考え発言を続けているひとりである。

 猪熊さんは、父の反対を押し切って一九四四年、
15歳で志願して陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊、水戸東飛行場に勤務(その間、米軍の艦載機による攻撃で11名の同期生を失う)、のち満州に送られ敗戦、17歳でソ連の捕虜となりシベリア抑留。ダモイ(帰還)したのは47年末、19歳のときだった。

ダモイしてみると東京の家は空襲であとかたもなく、父はすでに亡く、2歳上で少年兵だった兄房蔵さんも戦死していた。房蔵さんは人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員(海軍2等飛行兵曹)として沖縄へ向け出撃、45年3月18日沖縄本島近くの粟国島北北西5㌔付近で米艦からの雷撃によって乗艦(第18号1等輸送艦)が沈没、回天もろとも青い海に果てた。時に18歳。

 実は兄戦死の正確な場所、日時をたしかめるまで得郎さんは何と50年をこえる歳月を費やしている。

 国の記録が杜撰であり、度重なる調査依頼にも有効な回答が得られなかったこと、戦死者が多く有力な証言が少なかったことがその主な理由だが、得郎さんはあきらめなかった。

 いや、あきらめることは不可能だった。自分も含めて、いったいあの志願は何であったのか戦争をはじめた国家とはいったい何なのか、考えれば考えるほど疑問がつのったからである。

◇ ◇
 房蔵さんは2首の遺詠をしたためていた。

 益良夫の後見む心次々に
      うけつぎ来たりて
         我もまた征く
 
 身は一つ千々に砕きて醜千人
       殺し殺すも
         なほあき足らじ

 得郎さんはある雑誌にこう書いている。
 「小学1年の教科書から〃ススメ、ススメ、ヘイタイススメ〃と学び、〃ボクは軍人大好きよ〃と歌い、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸躍らせ、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと心から信じる少年に育てあげられた。

(中略)私たち当時の少年は、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。そしてその戦争が〃大東亜戦争〃の美名の下、他国を侵略し、他国の民族を支配し、抑圧する戦争だったのだ。

しかも少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び〃戦争をする国〃にしようとしている」

 そうして、私もつい見落としていたのだが、実は少年兵はいまも再生産されている。少年自衛官とも言うべき陸海空「自衛隊生徒」(15歳以上17歳未満の中学卒業者から選ぶ)が毎年採用されている。平成15年度の合格者は六四六名(昨年度採用は四一一名)で増加傾向にある。

 応募者はここ数年1万人をこえ倍率は30倍に迫る。選択の自由はある。だが、同時に一人として戦場で死なせないための、戦争国家をつくらない選択の自由もあることをこの際明確にしておきたい。
  (国公労調査時報2004年9月号より)

つづく

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