2010年7月30日金曜日

帝国陸海軍の少年兵4

海 軍 の少年兵 1

海軍飛行予科練習生(予科練―少兵の代名詞)

 1930年(昭和5年)6月、前年末の海軍省令第11号による海軍志願令規則の改正により、横須賀海軍航空隊に、「予科練習部」が出来たのが始りである。

 創設時は15歳から17歳を対象として、修業年限は3年、全国5千9百余名の志願者から79名が一期生とて入隊した。

 その後当初から採用時高等小学校2年卒業程度のものを乙種とし、中学4年1学期終了程度(創設当初)のもので修業年限を短くしたものを甲種とした。
[表1]
(表1)  予科練・入隊者・戦没者数

 創設    入隊者数   戦没者数
乙  種  1930年    87550   4900
甲  種 1937年 139720 6778
丙  種 1940年     7298   5509  
乙  特   1943年     6715   1348 
合  計 241238 62635

乙種

予科練は、将来の航空特務士官を養成するための制度であり、それに必要な高度の知識と特殊な技能、指揮能力を持った人材の養成を目的にしたものであった。

第1期生から第7期生までが「予科練習生」と呼ばれ、その後、「乙種飛行予科練習生」と変更になった。
1期から7期までの入隊が合計1105名、そのうち717名が戦死、戦没率68.9%であった。

甲種

1年に200名足らずの入隊、訓練で、3年間も掛けて養成する「予科練習生」の制度では、どう考えても航空戦力充実の要請に応えることが出来ない。それで予科練習生の教育機関を短くする制度が考えられた。

採用の学力を高くし、学力を(旧姓)中学4年1学期終了程度とし、修業年限を半減させた「甲種飛行予科練習生」を発足させ、従来の制度の8期生からを「乙種飛行予科練習生」とした。

甲種飛行予科練習生は、1937(昭12)年9月1日、2874名から選ばれた250名が第1期生として入隊した。

丙種

日本海軍が,士官を中心とした操縦講習員の養成を始めたのは、1926(大正元)年であった。これまであった、「操縦練習生」「偵察練習生」などを一本化して、1940(昭15)年10月、「丙種飛行予科練習生」が生まれた。

「丙種飛行予科練習生」は、既に海軍軍人としての勤務実績を持つ人々を、他の各科から選抜して搭乗員として養成しようとするものであった。
予科練としての就業期間は極めて短く6ヶ月と定められたが、実際には、1ヶ月から4ヶ月で卒業したものも多い。

1940(昭15)年10月1日に第1期生が入隊して、この期が閉じられる1943(昭18)年3月31日までに、7732名が入隊して、戦没者5905名、戦没率71%である。

特乙

米軍の大反攻作戦によって、日本の航空作戦は逼迫し、1942(昭17)年度に乙種飛行予科練習生の第二次試験に合格したままになっていた者から、年齢16歳6ヶ月以上で短期教育に適する者を特乙として採用した。

特乙は、1943(昭18)年、第1期生1585名が岩国空に入隊してから、1944(昭19)年10月1日、第10期生が高野山空に入隊するまでの間、合計6845名が採用され,1348名が戦没、戦没率は約20%である。

甲、乙、丙

夢多き、純真な少年兵制度に、甲、乙、丙などの名称を着けるなどの無理解、無頓着、無粋で、無神経な呼称は、やがて練習生相互の間に、反目と対立を生むこととなった。

戦前の小学校成績表、いわゆる「通信簿」の成績評価は甲、乙、丙の三段階絶対評価であった。甲、乙、丙は当時の人々にとって、歴然たる評価の基準であった。

乙種にすれば収まらない。後から出来た制度が甲種。しかも1年も先に入隊して猛訓練に耐えている。ところが後から来て、青白いのが、階級も、数ヶ月もすれば追い抜いて行く。我慢がならない。甲乙が混在した航空隊では衝突が絶えない。すれ違えば部隊ごとの殴り合いである。

1944(昭和19)年3月には、ついに、三重航空隊の甲種は土浦航空隊に移動。土浦航空隊の乙種は三重航空隊に移動した。それ以後、土浦航空隊は甲種予科練、三重航空隊は乙種予科練の教育訓練の場となった程である。

七つボタンの誕生

1937(昭和12)年に甲飛の制度が出来たのであるが、当初、海軍は、この制度を海軍士官養成の海軍兵学校に準じるような制度であるように宣伝して中学生を募集していた。

入隊して「ジョンベラ」の水平服を着せられた初期の甲飛生の不平、不満、屈辱感は燃え上がった。
第3期生の中には、「水兵服」を恥じ、屈辱感から、折角の休暇に故郷に帰らぬ者も出た。

「われわれは軍人として入籍した以上帰ることはできない。しかし後輩が甲飛に来ることは阻止しなければならない」と出身中学へ甲飛受験を止めるように指示する文書を送る動きが出始めたのである。

おどろいた当局は厳重な調査をしたが、3期生の団結は固く、「修正」の名をかりた暴力の制裁にも屈せず、ついに煽動者を見つけ出すことが出来なかった。当局は懐柔ににあたることになった。

甲種予科練3期生は、将来の処遇、現在の教育内容の改善、七つボタンに短剣やウイングマークをつけた制服などの要求を提出した。

この結果、服装面では短剣が割引されて、1942(昭17)年11月1日に「七つボタン」の制服が誕生して、甲飛は第8期生からこれを着用するようになった。
 これが予科練の代名詞ともある七つボタン誕生のいきさつである。

 搭乗員の消耗の激しくなった1943(昭18)年以後は大量採用が行われ、終戦までの僅か2年半で20万4千名が採用された。(表2)


(表2)  予科練43年以降の採用数
           甲種 乙種 計
  1943年  7310 31203   38513
  1944年 33140 78027   11167
  1945年 29280 25035 54315
合計 69730  134263  203995

海軍航空特攻(神風特攻隊)2225名のうち予科練は1728名(68%)。 桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)震洋(ベニヤ製水上特攻艇)、海竜(中有翼小型潜行艇)、蛟竜(水中特攻)伏龍(人間機雷)、土竜(もぐら特攻)神竜(滑空特攻機)等の特攻は全て予科練を主力として編成された。
(予科練と特攻については後述する)

燃料不足、機材不足、戰況逼迫のため搭乗員教育は45(昭20)年1月1日で中止。予科練教育は45(昭20)年6月で中止。以後本土決戦を前にして、予科練教育末程了者は基地整備、修了者は総員特攻、水上水中特攻要員とされた。

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